体育科卒銀行員経由のアントレプレナーのreport

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為末大 講演 ~チャンス~

日本人初のトラック競技メダリスト、坊主頭、なんか賢そう、物腰の柔らかい語り口、

こんなイメージの為末さん。先日講演をオンラインでお聞きする機会がありましたので、まとめてお伝えさせていただきます。

ちなみに現役ピークが2001、2005なので、20年近く経過していますが、400Mハードルの高校記録、日本記録はいまだに彼が保持しています。


「チャンス」調べてみると、機会、好機、可能性、危険、偶然の、といった意味がある。つまりチャンスとは

<何かを変えられる機会>

なのだと解釈した。何かが変わる、のではなく「変えられる」機会だ。能動的に働きかけて運命を変えられる機会、とも言えるのではないか。

中、高、大と全てのカテゴリで日本一を獲得してきたが、中学チャンピオンがそのまま成長して世界でメダルを取った前例は他にない。なぜか?


8歳で陸上を始め、小さい頃から足が速かった。広島出身で小学生の頃は野球が盛んだったため野球チームに。ランナーが出ると「代走為末!」を告げられだいたい2盗、3盗と決め得点につなげる。こんなパターンで地域のベスト4まで勝ち上がった。さぁ来年は優勝だと意気込んでいるところに盗塁は1人1回までという新ルールが敷かれ、またある審判に「この子は野球ではないのではないか?」という勧めも

あって、陸上を本格的に始める。

同時に読書も好きでシャーロックホームズの冒険で、相手の所作、癖からその人の職業を当てる描写に大変興奮したのを覚えている。あの頃から読む書きすることが好きだった。

中学では100、200で日本一となり、200Mにおいては歴代の中学記録を打ち立てた。当時の記録はカールルイス、桐生、サニーブラウンの中学生の時よりも早かったため、日本人初の9秒台は為末だと期待された。

しかし、中学三年で現在と同じ174センチ、64キロまで成長する早熟型で記録が伸びなくなる。中学だと2番の選手が遥か後方だったのが、次第にその距離が縮まり高校の時にはついに同じ高校の後輩に負けてしまった。この時に初めて自分からスポットライトが外される経験をした。このままだとやっていけない、そう思っているとふとハードル選手が目に留まった。

「これならフィジカルでは敵わなくても、技術でカバーして勝負できるのでは」

そう思い、高校最後の大会からハードラー為末の人生が始まった。あのまま100Mを続けていたら潰れていただろう。

「過不足ない自分を知る」

この必要性を感じて実行に移した結果なのかもしれない。

陸上の世界ではピッチ(回転)とストライド(歩幅)が言われるが、為末はストライドは出るがピッチが上がらない選手だった。短距離選手だった頃はコーチに

「為末はピッチが上げれば、、、」

と言われていた。短距離ではこのピッチが後半の加速につながる。逆にハードルではピッチよりもストライドが重視されるスポーツで、ハードルに転向してからは

「為末はストライドが出せる!」

とウィークポイントがストロングポイントに変化した。結果的に自分の特徴を長所と言われる競技を探したことになった。

迎えた2000年シドニー五輪高橋尚子の金メダルが印象的な大会だが、この大会に為末は出場している。予選のレースで順調に飛ばし、残りハードル2台のところまで1位で走っていたが、残りのハードルにつまづきまさかの転倒、予選落ち。

アナウンサーの「気の緩みがあったんでしょうかねぇ」という実況に

「あるわけねーだろ」

オリンピックは選手にとって特別なものだ。規模が違う、注目度が違う。また4年に1回の開催であるため、1人の選手の平均出場回数は2回ない。次のチャンスは4年後、その時の自分が想像できない。チェンジングルームというメディアが入れないスペースで感情を爆発させる選手、泣き崩れる選手を横目にそう思った。

日本に帰国する際、メダリストはビジネスだがそれ以外はエコノミー、またメディア対応も雲泥の差で、寂しい帰国を済ませた。

1か月程練習に身が入らず、周りからの励ましもあり再度練習に取り組むが、漠然と練習していることに無力感も感じ、転倒したレースをテープが擦り切れるまで見直した。

実況は言っていた。「随分風が強そうですね」確かにユニフォームがたなびいている。3Mくらいだろうか。為末は1台目までを21歩、その後13歩、ストライドが縮んでくるのでその後14歩を2回、15歩を3回とハードル間の歩数を決めている。このレベルの風が吹くとストライドが2、3センチ変わってくる。それが8台目、9台目のハードルを迎えるころには30、40センチ変わってくるのだ。もちろんそんなことはわかっていた。でもスタート地点ではまったくそのことに考えが及ばなかったのだ。

振り返ってみると1台目を跳んだ時、何かいつもと違うなという違和感があったのは覚えている。追い風だった。このことに緊張と周りの海外選手の走りに飲まれて調整ができなかった。うどん屋さんがその日の気温、湿度によって水、塩の加減を微調整するという話があるがまさにそれができなかった。

この検証を経て、毎回似たような環境、つまり日本を主戦場にしていていいのかという疑問が湧いた。また本番で同じミスをするのではと。

為末は欧州のレースへの参戦を決意する。当時野茂英雄がメジャーに挑戦していた頃でもあり、海を渡った侍、にあこがれる世代だったというのもあった。当時競馬と同じようにG1、G2、G3というランクがあり、ランクが上がると出場が難しく賞金が高い。これが年間50試合程開催されている。ここで4、5番くらいの結果を4試合で残し1年で500、600万位の賞金を手にして帰国した。

海外のレースを経験し、フィジカルに劣る日本人がいかに海外の選手と戦うか、と思われがちだが、現場では190センチのガチガチに緊張した選手がいたり、ハードルが下手くそな選手もおり、そういったメンタルブロックは外れた。

そして2001年世界陸上、400Mハードル、47秒89、銅メダル。日本人初トラックメダリストとなる。

シドニーで下手に準決勝くらいまで行っていたら海外チャレンジはしていなかったと思う。海外チャレンジも準備してから突っ込むのではなく、とりあえずやってみるという勢いの方が大きかった。

コントロールできないものではなく、コントロールできるものに意識を向ける

過去は変えられない。でも時間が経って過去に意味が出てくることがある。

そんなことを感じた。

一気に有名人になった為末はアメリカに住んだり、電車なんて乗ったらだめなのかな、という自意識過剰な時期も経験。しかし、だんだん結果に対するプレッシャーが出てきた。自分が出場すると通常の陸上の大会よりも3000、5000人と観客が増える。そこで2番を取ると「あー、、」という観客のため息がはっきり聞こえる。

広島出身の矢沢永吉の世界で、東京に出て一旗挙げるぞ!

世界に勝つぞ!という欲望から

勝たないといけない、という義務感に変化していった時期がこの頃だ。

当時の日記を読み返すと如実に優等生発言が多くなっていることに後年気づいた。

時を同じくして父が食道がんに倒れ、最期に「やりたいようにやりなさい」と言われ、当時大阪ガスという一流企業に所属し環境には満足していたが、最終的には

「人生なんていつ終わるかわからない」

とプロ転向を決断する。

2回目のメダルとなった2005年ヘルシンキ世界陸上。準決勝でも8番目のタイムで決勝はどう感考えても6番がいいところか、そう思っていると雷が鳴るくらいの悪天候で、他の競技選手から中止を知らされる。その後大会委員から2H遅れで実施、やっぱり中止、やっぱり実施など二転三転と翻弄されたレース前。周りを観察すると当時28歳だった為末はベテランで最年少には19歳の選手も出場していた。最初はぴょんぴょん飛び跳ねてアップしていた選手達のテンションがどんどん下がっていくのを見て、「行けるかも」と思い始めた。そこで立てた作戦が1台目までは全力で飛ばすというもの。7レーンだった為末の背中を他の選手は見ることになるから、そこで相手を翻弄させられれば、そんな作戦だった。結果ゴールに倒れこむ形で3位、銅メダル獲得となった。

その後北京五輪、大阪世界陸上と挑戦するも失敗、34歳で引退となった。

その後コメンテーターとして3、4年活躍し現在は会社の事業も集約、アスリートに伴走する本来のやりたいことに集中する人生を送っている。


「総評」

個人的に冷静で賢そうなアスリート、という印象があって好きなタイプだったので、じっくりメモを取って聞き入りました。随所にありましたが、チャンスは困難な顔をしてやってくる、ということだと思います。最初の五輪での挫折は大きなショックだったと思いますが、過去は変えられないと切替え、それを肥やしとすることでその失敗した過去に意味が出てきたとお話されていました。また講演テーマと少し外れると思って割愛しましたが、達成から納得という人生のフェーズにあるともおっしゃっており、どうすると納得がいく人生が送れるか?と考え、引退後アスリートぽくないこともパフォーマンスとしてやってきた自分がいたけれども、やはり最後はアスリート支援ということをメイン行っているとおっしゃっていました。

私が通わせていただている会社さんは優良企業が非常に多く、社長個人というレベルでは経済的になんの問題もない、という方は結構いるように思いますから、この納得のいく人生、というのはレベルの高いテーマであるとともに、そんなことを考える社長もいるかな、と思って添えてみました。

チャンス、これは要するに無限にあるということですね。コロナに合わせたテーマであったことは容易に想像がつくと思いますが、動画も交えた非常にスマートな講演で楽しかったです。