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母さん、ごめん ~50代独身男の介護奮闘記~ 松浦晋也

母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記

母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記

働き盛りの世代は、親を心配しつつも割く時間がなく、特に根拠もないまま「年を取ったけど、それなり元気に過ごしているはず」と信じている方が多いのではないだろうか。 「ずっとこんな日常が続くはず」という小さな、しかし深い思い込みはある日突然崩れるかもしれない。 本書は認知症の母を介護する独立系独身男性ライターの奮闘記であり、これを通じてご自身、ご両親への認知症に対する備えについて考えていただければ幸いである。   2014年7月、介護敗戦のスタート 「預金通帳が見つからない」と母が言い出し一緒に探すといつもの所にある、ということが繰り返された。通帳を見せて「これは何か」と聞いても「記憶にない、使っていない」と言う。母の様子は明らかにおかしい。 1934年生まれの母、この時80歳。この時介護の矢面に立つことになった著者は53歳。母は高校を卒業した後、この年代には珍しく大学まで進学し、英文学を学んでいる。卒業後は東京丸の内に本社を構える大企業に就職し、結婚後寿退社。子ども三人を育て、後に50、60代では英語の能力を生かして中学生向けのごく少人数の私塾を営んだ。母が70歳時に父は死去し、その後も合唱のサークル、太極拳の練習、フランス語、スペイン語、中国語の勉強とけっこう人生を楽しんできた。体も丈夫で病気らしい病気もしなかったため、なんとなく 「このまま徐々に衰えて、周囲にあまり手間をかけさせることなく、けっこう長生きをしてすとんと死んでいくのだろう。」 と思い込んでいた。 そうではなかったのである。 この頃から ・掃除を面倒臭がり、片付けができなくなる。 ・歯磨き粉、マヨネーズ、ケチャップを使い切らずに新しいものを開封する。 ・常日頃こまめに日程を付けていた手帳が途切れていた。 ・調理を面倒臭がり、卵かけご飯だけ、等の手抜き料理を好むようになる。 ・食べこぼしが目立つようになる。 ・ガスレンジにかけた鍋、やかんを忘れて空焚きする。 といったことが起こるようになってきた。介護敗戦、いや2年半に及ぶ続く介護敗走の始まりだった。 明らかな認知症の始まりだが、「私は何ともない。」本人は病院に行きたがらなかった。 介護される側とする側の確執は一般的で、その矛先は最も身近な直接介護をする家族に向かうのが普通なのだそうだ。    2014年秋 著者の入院 母を何とか受診させた結果、様々な異常が見られたものの、日常生活に大きな問題が毎日起こる状況ではなかった。なんとか三度の食事も自分でこなしていた。しかし仕事の多忙と、母の介護で左耳の後ろからあごにかけて湿疹ができ腫れる帯状疱疹と診断され、医師からは顔に近いので麻痺が残るかもしれないと入院することとなってしまった。退院後に母が「友達に会う約束ができたから車で送ってほしい。」と頼まれ送るが、誰とどこで待ち合わせをしているのかはっきりせず車内で言い争いになったあげく目的地にたどり着くことはできなかった。 この晩母の様子がおかしくなった。 うつろな目をして何を聞いても「うん・・・うん」と曖昧な返事。日曜の晩はドイツにいる妹一家とスカイプで話すことになっており、母も楽しみにしていた。しかしこの日は孫が顔をだしても反応がなく、妹が「お母さん、お母さん」と問いかけても会話が成り立たなかった。 妹はこの夜初めて事態の深刻さに気付いたようで、「お母さんが、一線を越えて向こうの世界に行ってしまったようだ」とメールをよこした。 2015年年明けから春先 認知症介護の予想外の敵「通販」 介護によって過去の負債の清算が押し寄せてくる。通信販売だ。「これを払ってきて」とコンビニ払込票を渡されていたが、もしかして?とある時届いた宅配便の中身を確認すると中に入っていたのは「白髪染」だった。慌てて洗面台の引き出しを引っ張り出すとそこには未開封のそれが大量にストックされていた。返品作業を一通り終えて一安心かと思いきや、翌月も同じものが届いた。継続契約だ。要するに母は契約したはいいが、届くと使わずにしまい込み、代金だけは律義に払い込んでいたのだ。この類は健康食品、サプリメント、酢、カプセル錠、乳液と多岐に及んでいた。その都度解約しても、また同じ契約を申し込んでいることもある。「一体あなたは何をやっているんですか!?これはいっぱい余っているから契約を切ったでしょうが!」「知らない。そんな物は買っていない。」もちろん母は覚えていない。本人には大量在庫も見せている。つまり忘れているのだ。穴を掘って自分で埋めるような徒労感は後にケアマネジャーに聞くと現場では大きな問題になっていると言う。 この頃から母は家事を私に譲るようになり、最初は掃除、次に三度の食事だ。火の始末ができなくなり、ガスコンロのそばに布巾が無造作に置いてあるなどヒヤリとすることが続いたからだ。しかし母はあくまでも自分の縄張りとばかりにこれ見よがしに付けっぱなしの台所の電気を消したり、空いたままの食事棚を音を立てて閉めたりしてきた。そんな攻防もあってか、一人暮らしの長い私にとって面白いはずの料理が、毎日ということもありこの上なく面倒なものに変わった。 ここで「母がいる?うちには何するかわからない子供がいつも大騒ぎしているわよ。」という反論もあるだろう。 その通りなのだが、介護と育児は大きく違うことがある。 子どもには育つ喜びがある。介護にはない。日々少しずつ症状は進行し、介護する側のストレス許容のコップは少しずつ満杯に近づいていく。また長年専業主婦だった母にとって家事の引継ぎは、自分の存在否定にもなりかねず、自尊心を傷つける事態でもあった。そこに当然衝突が生まれるのだ。 そしてこの頃から母の性格に変化が現れた。「あーあ、こんなんじゃなくておいしいものが食べたいわー。」周囲への我慢、配慮がなくなるという形だった。 2015年2月、長谷川式認知症スケール受診 質問形式によってアルツハイマー病かどうか認知機能を測るものだが、「アルツハイマー病ですね。」という医師の診断を驚かずに受け止めた。 2015年4月頃 全ての生活の依存 この頃から生活全般を依存するようになり、私のストレスは尋常ではなかった。まず眠りが浅くなり、寝酒をするようになると睡眠の質が下がる。ますます疲労がたまり更に酒量が増え、後頭部には神経が焼けるような不快感が張り付き、こうなると母との言い争いも激化し、これによって益々神経疲労が増した。 そしてついに仕事に支障をきたすようになった。幻覚が出たのである。 受け取っていないメールを受け取って読んだと思い込み、返事を書くと「そんなメールは送っていません。」と返事が来た。愕然として受信メールを確認すると確かにそんなメールは来ていなかった。そんなことが数回繰り返された。 2015年5月 散歩で転倒 肉体の衰えとして、温泉で湯あたりして倒れ救急車を呼ぶ騒ぎが起きた。そして犬の散歩で転んで顔に大きなあざを作り、右手にも大きな擦り傷ができていた。後から思えば、自分が転んだことを覚えていることができただけ、症状が軽かったとも言える。その後症状の進行につれて、母はついさっきのことも覚えていることができなくなっていったのだ。 2015年5月半ば 要介護1認定 弟の助言で公的介護に頼ることとなり、まず「地域包括センター」に相談した。ここは無料で相談に乗ってくれ、介護認定を受ける運びとなった。制度設計としては介護の度合いが重くなると同じサービスを受ける対価が安くなる。ただし将来にわたってこの制度が続いて自分が老いた時も同じサービスを受けられるとは思わない方が良い。2015年厚労省のおおまかな制度改正は「支出を抑え、収入相応の負担を受益者に求め、施設入所を抑止して、家庭での介護を優先」というものだ。例えば特別養護老人ホームの入所については「要介護1以上」から「要介護3以上」に変更されている。 介護判定は結果が出るまで1か月ほどかかり、5月半ば要介護1という認定が出た。ここからはケアマネジャーさんと家庭の内情に合わせた介護計画を作成、利用することになる。 2015年5月22日 初めてのデイサービス 初めてデイサービスを利用する日、母はかたくなに拒絶した。「そんなところで号令かけられて一緒に運動なんてしたくない。」と。当日の朝もどうなるか心配したが、デイサービスの体育会系インストラクターのアシストもあり「そうかしら」と言って玄関まで出てきた。家族以外の介護の人が言うと本人が動いてくれることはあるという。外部の人間だからこそできることもあるのだ。介護のノウハウとはこういうことなのかと感心した。この後毎週金曜日デイサービスに通うようになっていった。 2015年6月末 失禁 2014年12月から予兆はあった。こっそり母が自分のパンツを干しているのだ。尿漏れパッドの利用を勧めるも激烈な拒否があり、洗濯回数が増えるだろうと予測し洗濯機を新調した途端母は操作が覚えられず、ここから母のパンツは私が洗濯するようになった。バケツで水すすぎ、酸素系漂白剤に漬け、洗濯機という流れだ。腎臓でろ過されているので不潔なものではないが、愉快な作業ではない。これもあって幻覚が出るまでに至ったようにも思う。6月のある朝、朝食のことで言い争いをしていると突如母が失禁した。「じゃっ」という勢いの失禁だった。すぐに拭き掃除をし、着替えさせ、洗濯をする。廊下に尿が漏れていることもあった。拭き掃除をしていると隠れて汚物を洗おうとしている母がいる。隠さずに漏らしたら呼んでくれと言っても、言われたことを忘れてしまう。一日に何回もこんな事態が起きたが母はかたくなに尿漏れパッドの装着を拒否した。自分で自分の排泄を律することができないことを認めるのはつらいことなのであろう。 2015年7月 本格的なデイサービスへの通所 ヘルパーさんたちの手による本格的な介護が始まった。他人がプライドを傷つけないように説得(誘導)すると効果はあるもので両漏れパッドも装着するようになり、洗濯生活からようやく解放された。大変な場合は小だけなく大を漏らし、その下着を隠してしまうケースもあるという。それを押し入れの奥からからからに乾いた便がくっついたパンツが発見されることもあるそうだ。 2015年秋 尿漏れパッドからリハビリパンツへ 尿漏れパッドでは対処しきれない失禁となってくると、おむつ(リハビリパンンツ)に移行することになるが、これもヘルパーさんたちの粘り強い働きかけが必要となった。しかしこの問題が解決すると、今度は母が使用済のリハビリパンツを勝手口に放置するようになった。尿の量も多いのでそれなりに匂う。 2015年7月 再度転倒 誰も見たわけではないが病院の診断で肩の脱臼が発覚した。おそらく夜トイレに行こうとして転倒したのだろう。そして痛みを伴ったのだろう。朝起きると布団にうずくまる母は便も漏らしていた。このままだといつか階段の昇降で転倒が起きると思い、これまでの居住空間である2階を1階に移そうと決めた。母も「肩が治るまでは仕方ないわね。」と同意してくれた。しかしもう2階に戻ることはないのだ。 そして「どこまで母をこの家で介護するか」という見通しもつきつつあった。尿漏れまではなんとかなるが、便となると一人では厳しい。排泄のコントロール如何で母をどこかに預けよう。 この夏頃から介護のリズムが一通り整ってきた。月曜は午前9時から午後5時までデイサービスに通い、火曜から木曜、そして土曜は昼にヘルパーさんが入って食事を作り、同時に身の回りの世話をしてくれる。金曜は午前中だけデイサービスに通い、日曜はこれまで通り自宅で世話をした。2015年8月に入るとデイサービスの空きが出たので水曜日も9時5時のデイサービスも利用するようになり、短期間の宿泊サービスであるショートステイも始まった。 2015年10月 過食 ヘルパーさんたちからいずれ出るかもしれないと言われていた過食が起きた。ある日の夕方帰宅すると台所には冷凍食品の封が切られ、ガスコンロには水を張ったフライパンが放置され、冷凍餃子が放り込まれていた。これが何度も続いた。これは満腹中枢の異常と食べたという記憶が忘れられることが原因だ。古典ギャクの「お爺ちゃん、もうご飯食べたでしょ」の元ネタだが、実態は笑えるものではない。炊飯器のおひつを抱え込んでしゃもじで際限なく食べる様子は悲しいものだ。 また排便の失敗も頻発するようになり、便座や床に付着するレベルであればよいが、トイレマットにべっとり付着すると、マットを流水にさらして便を流してから、塩素系漂白剤に漬けこんだ上で洗濯機にかけて洗わねばない。ここまでの便漏れになると、着衣を点検して汚していたら着替えさせるという手間も加わる。誤って尿漏れパッドを便器に流した時は便交じりの水があふれ、仕方なく便交じりの水に手を突っ込んで母が詰まらせたティッシュやらなんやらを引っ張り出した。行き場のない徒労感が残った。 2015年11月 要介護1据え置き 11月に入りケアマネジャーさんに要介護1から2へ変更できないか相談した。認定によっては使えるサービスが変わるからだ。介護認定の見直しは通常年に1回だが、年度の途中でも症状が重くなった場合には利用者側から申し立てをすることができる。手続きは利用開始時と同じで主治医の意見書を添付して申請書を提出し、市役所から聞き取り調査があり、月に1回の介護判定会議にかけられる。12月の判定は「要介護1に据え置きだった。」がっくりきたが、ケアマネジャーから思いがけない提案を受けた。 「主治医を代えませんか?」 なぜか?実際問題として主治医の意見書の影響は大きく、母の現状からすると主治医によっては意見書の内容が変わるかも知れないというのだ。その時の主治医は総合病院の院長も兼務していて多忙なのが診察を見ていてもわかるレベルだった。しかも意見書は封緘されているので患者側は読むことができない。10か月以上診察を横で見ていて、アルツハイマーの診察とは「患者の状態を調べて投薬量を加減する」ということだとわかっていた。母は副作用もなく精神状態の判定が主で、投薬量の調整も全くなかった。臨床試験に挑戦するわけでもなく、総合病院特有の医療設備に頼る場面もなければ近所の医院でも構わないのではないか。 2015年12月 主治医変更、要介護3へ 元の主治医に引継事項の書類を書いてもらい新たな主治医に提出する。これにかけることにした。新しい主治医は意見書を読み、細かいことがあまり書かれていないことを指摘し、ヒヤリングのもと意見書を書いてくれた。2月半ばに出た判定は要介護3だった。要介護2と3の差は、排泄を含む日常生活が「部分的に介護が必要(要介護2)」か「ほぼ全面的な介護が必要か(要介護3)」である。 2016年2月 リフォーム どのくらい母が家で過ごすことになるかわからなったが、断熱の関係のリフォームを130万かけて行った。このリフォームの費用対効果はどうだったのか。結論から言うと母が改装後の家で過ごしたのは10か月だった。 要介護3認定が出て、全日デイサービスを月曜、水曜ともう一日増やしたかったが、老人介護は慢性的な人手不足で結局デイサービスの空きが出たのは4月に入ってからだった。 2016年7月 ヘルパーの退職 3人いたヘルパーさんで特によくしてくれていた方が自身の母の介護を理由に退職した。彼女は話好きで母ともよく会話を楽しんでいた。最後の勤務の日彼女に花束を渡して労をねぎらった。連絡先を交換しておいたところ、数か月後にメールが届いた。 「自分の母の介護は今までと勝手が違って苦労しています。」 という内容だった。彼女がいなくなってから新しいヘルパーさんが入ってくれるようになったが、母は抵抗を示した。「あなた誰。どうしてここにいるの。」「あなたの作る料理はまずい。こんなもの食べられない。」といった具合だ。 2016年8月 再度転倒 朝起きると左腕に大きな擦り傷を作っており、本人は覚えていないがおそらくトイレに行く際に転倒したのだった。右わき腹が痛いという言うので、嫌がる母を受診させる肋骨1本骨折していた。1年前の肩の脱臼の時と比べ明らかに医師との会話がちぐはぐになっていた母がいた。失禁の量も増え、600ccのリハビリパンツをはかせたが、デイサービス中にもリハビリパンツを超えて尿漏れが起きるとビニール袋に入れたズボンが戻ってきた。一度ズボンの中にリハビリパンツが入ったままで、それに気づかずに洗濯機を回したら、吸水ポリマーが洗濯槽内に飛び散り、その他の洗濯物に付着して大変なことになった。床一面に新聞紙を敷いて洗濯物を叩いて吸水ポリマーの粒を落とす。これはデイサービス側のミスだが責められない。こんな具合で要介護3になってからも何とか介護生活をつないでいる感じだった。 2016年後半 「死ねばいいのに」が止まらない 母の失禁、健康維持の散歩、各所への付き添い、ストレスは深刻だった。ここに輪を掛けたのが収入の減少だった。残高を確認するとこの頃から急速に減少している。母にかかる手間が増え、精神的にも仕事ができなくなってきたのだ。残高の額が減っていく恐怖は体験した者でなければわからない。減少曲線の先には破綻が見える。「死ねばいいのに」という独り言が出るようになった。 2016年秋 母に手をあげた日 衰える足腰、量が増える失禁、度重なる排便の失敗。加えて過食も再発した。 自分が壊れる時は必ず前兆がある。 今回の場合「目の前であれこれやらかす母を殴ることができれば、さぞかし爽快な気分になるだろう。」という想念となって現れた。理性では絶対やってはいけないとわかっている。本気で今の母を殴ろうものなら普通のけがでは済まない。死んでしまえば殺人であり、即自分も破滅する。 10月23日土曜日、私は台所に立つのが遅れた。すると母は冷凍食品を台所一杯に散らかし、私を見て「お腹が減って、お腹が減って」と訴えた。明日も自分が夕食を作らねばならない。「明日は遅れないようにしよう。」そう思う自分の脳裏に、別の声が響いた。「殴れ、明日もやらかしたら殴れ。」 次の日、少し予定が遅れたが夕食時に帰宅すると、私を迎えたのは散らかった冷凍食品と母の「お腹が減って、お腹が減って」という訴えだった。 気が付くと私は、母の頬を平手打ちしていた。 母はひるまなかった。「お母さんを殴るなんて、なんてことするの。」と両手の拳で反撃してきた。しかし痛くもなんともない。一度噴き出した暴力の衝動は止めることができず、また母の頬を打つ。「なんで、なんで。痛い、このっ」と叫ぶ母をまた平手で打つ。「止めねば」という理性と「やったぜ」という解放感が拮抗して奇妙な無感動状態に陥った。我に返ったのは母の口から出血した時だった。「お母さんを叩くなんて、お母さんを叩くなんて」とつぶやき続けるが、そのうちに「あれ、なんで私、口の中を切っているの。どうしたのかしら。」と記憶できないのだった。 呆然と部屋に戻り携帯を見ると、妹からメールが入っていた。「今少し話をしたい。スカイプスタンバイします。」 スカイプを通じて自分がしてしまったことを妹に吐露した。妹は事情をすぐに理解したようで、「わかった、私がケアマネさんに連絡をいれる。もう限界だということだと思うから、ちゃんと対策しよう。」と言ってくれた。 翌日ケアマネさんから連絡が来て、2週間ショートステイで預かると言ってくれ、「もう限界だと思っていました。よくここまで頑張られたと思います」と付け加えてくれた。 その後ケアマネさんと話し合い、ここから先は施設のプロに母を託すべきであるということになった。「ここまでか」と「やっと終わる」が入り混じった感情でショートステイ中もあまり休息できた実感はなかったが、事実まだ安堵できない状況にあった。老人介護施設には定員があり、昨今の老齢人口の増加によってどこも混雑しており、望んだからすぐに入所できるものではないのだ。 預け先として特別養護老人ホームグループホーム、民間の老人ホームを検討することにした。特養は要介護3以上の老人が入居できる公的な介護施設だ。生活の場という位置づけで、継続的医療行為が必要な場合は対象外になる。公的施設だけあって比較的安価だが、施設の充実度はまちまちでその安さもあって入居まで1年以上自宅待機というケースも多い。グループホームは社福やNPOなどの民間が主体で、こちらも公的な補助が入っており、極端に高いということはない。ただこちらも人気が高く入居前の待機が長くなる傾向がある。民間の老人ホームは言うまでもないだろう。全般に入居費用は高く、上を見れば切りがない。高さはネックだが入居はさほど難しくない。 2017年1月 母、我が家を去る 2016年末から兄弟3人で施設見学を行った。文字通り千差万別だったが、3人の意見が一致するグループホームがあった。しかしご多分に漏れず満員で空きがない。入居申請はいくつも提出していいので、ここを含めて5か所申請し、年末年始を妹の手厚い介護を受けた母と抽選待ちをした。1月に入って第一希望の施設から空きが出たという連絡が入った。入居費用は母の年金に加えて兄弟3人が一人1.5万ずつ支出すれば継続して支払える額だった。 我が家最後の朝、母は便で汚れた布団を膝に乗せて、呆然とテレビを見ていた。トイレからベットから床から便で汚れ、洗濯機には便で汚れたシーツが半分突っ込んであった。自分で片付けようとして途中で記憶が切れてしまったのだろう。何とか身支度をして、もう戻ってこられないと知らずにショートステイに出かけた。 入居当日、介護タクシーに乗せられる母は「帰るんじゃないの?私をどこに連れてきたの」と警戒心全開。 「ショートステイが長くなったので、もっと居心地が良いところを探して用意したんですよ」と嘘ではない説明をするも全く聞く耳を持たない。グループ長に促されて自分にできることはもうないと判断し、そっと母にわからないように身を引いて帰宅した。 帰宅してくっきり残った介護ベットの脚の跡を見て「一区切りついた」という実感が腹の底から湧いてきた。   「予防医学パラドックス」が教える認知症対策と「現実的な個人的な備え」 この2年半の介護経験は著者の実体験ですが、サンプル数1に過ぎません。世間にはもっと長く、10年以上介護負担に耐えている人もいるでしょう。 認知症対策としては日本の財源を考えると長く働くことでしょう。しかし一定割合が病気で働けなくなりますから、同時に健康寿命を延ばすことが必要です。 「小リスクの大集団から発生する患者数は、大リスクの小集団からの患者数よりも多い。」これが予防医学パラドックスです。言い換えると「社会全体に大きな恩恵をもたらす予防医学は、社会を構成する個々人への恩恵は小さい。」ということになります。希望を持てる言い方をすれば、「多くの人が、ほんの少しリスクを軽減することで、全体には多大な恩恵がある。」ということにもなります。更に言い方を変えると、ある疾患を減らすために、その患者のハイリスク群を集中的にケアしてもあまり効果がない。社会構成全体に働きかけて初めて効果が出てくるということになります。これは統計学的な事実です。 つまり、自業自得の人工透析患者なんて自己負担だ、という議論は間違っていますし、老人は優遇されている、もっと若者に予算を回すべきだという意見は言いにくい正論とも言えるのですが、これを容認すると社会の分断になってしまいます。 予防医学パラドックスを使って、タバコ、過重労働問題の解決等、じんわり社会全体で健康寿命を延ばし社会を維持していくことが必要です。 しかしレポートの中にも記載しましたが、介護負担が遠回しに個人家庭へしわ寄せされる流れもあります(オレンジプラン)。社会全体の理想と現実・・・。 最低限まずは自分の家族に迷惑をかけないような備えはしたいものですね。