体育科卒銀行員経由のアントレプレナーのreport

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人新世の「資本論」


人新世の「資本論

かつて資本主義の引き起こす辛い現実を和らげる宗教は「大衆のアヘン」だと批判されたことある。現代のSDGsはまさに地球環境が変化することへのアリバイ作りであり正に

「大衆のアヘンだ」。

あるノーベル化学賞受賞者は人類の経済活動が与える地球への影響が大きい為、地球は新たな年代に突入したと言い、「人新世 ひとしんせい」と名付けた。

ノーベル経済学賞を受賞した気候変動の経済学では、経済成長とCO2排出は相反するものであり、その答えをバランスだとした。しかしその最適解はあまりに経済成長に傾倒し過ぎていた。経済成長すれば技術革新によって温暖化問題も乗り切るだろうと。これによりパリ協定もノロノロした対策しか打ち出せず、SDGsと掲げる裏では今まで通りせっせとCO2は排出されている。このままいくと2100年には地球の平均気温は4度上がってしまう。

具体的には2030年までにCO2排出を半減させ、2050年までには純排出をゼロにしないとそういった未来が待っている。こうなると日本も無傷ではいられない。2度上昇でサンゴは死滅し、農作物の収穫にも影響があるだろう。また南極の氷床の融解によって江東区墨田区江戸川区のような地域は高潮で冠水だ。

人新世の資本主義環境危機の分析においてグローバルサウスの問題は無視できない。これは我々の生活は帝国主義生活様式と呼ばれ、貧困国の労働力を安く買い叩くことで実現しているという問題だ。南北の支配従属関係は例外的自体ではなく、平常運転なのだ。

2013年、劣悪な条件で働くバングラデシュの労働者達がファストファッションの縫製工場の入るラナプラザで働く中、このビルが崩壊し1000人以上が命を落とした事故は有名だ。彼らは事故の前日壁や柱の異変に気付いた。しかし世界中の需要を満たすために生産続行が優先され彼らの声は無視され悲劇が起きた。

そして安く叩かれ犠牲が出る程、大企業は儲かるのだ。

これと同じことが環境にも言える。資源、エネルギー、食料、これらが不等価交換によってグローバルサウスから搾取されている。

例えば日本人の食生活の主役になっているパーム油(酸化しにくく安価で加工食品、お菓子、ファストフードに利用)を例にとろう。主にインドネシア、マレーシアで生産されているが、原料となるアブアラヤシの栽培面積は激増している。それにより熱帯雨林の乱開発が進み、熱帯雨林の自然に依存してきた人々の暮らしにも影響がある。土壌侵食が進み、肥料、農薬が河川に流出して、川魚が減少してきているため、川魚からのたんぱく質が不足し、以前よりも食料を買うための金銭が必要になってきている。その結果オランウータン、トラなどの絶滅危惧種の違法取引に手を染めるようになっているのだ。

このように環境危機が引き起こす被害は「どこか遠く」の人々や自然環境に負荷を転嫁し、その真の費用を不払いにすることこそが、私たちの豊かな生活の前提条件なのである。

しかし、人類の経済活動が全地球を覆ってしまった「人新生」とはこのような安価な労働力、安価な自然を使い尽くした時代だと言っていい。資本主義がどれだけうまく回っているように見えても地球は有限なのだ。このことを19世紀半ばに早くも分析していたのがマルクスだ。彼は国家や大企業が気候変動対策を打ち出す見込みは薄い、解決策の代わりに資本主義が提供するのは収奪と負荷の外部化・転嫁ばかりで、最終的には資本による転嫁の試みは破綻すると予言している。経済成長を優先させることで将来世代は自らが排出していない二酸化炭素に苦しむことになる。こうした資本家の態度を「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」と皮肉った。

ではポイント・オブ・ノーリターンに至ってしまう前に大胆な政策が必要だということで近年注目されているのがグリーン・ニューディールだ。再生可能エネルギーや電気自動車を普及させるための大型財政出動公共投資を行うものだ。そこで新たな雇用も生み出し、好景気がさらなる投資を生み、持続可能な緑への経済移行を加速させるというものだ。

SDGsはこの旗印になっているわけだ。国連、世界銀行IMFOECD等の国際機関もSDGsを掲げている。

さてここで問題なのはそういったことをして絶対的に二酸化炭素排出量を減らせるかということだ。もちろん相対的には新しい技術革新をもってインフラ整備をしたり発電所を作ったりすれば旧来のやり方に比べれば排出量は減るだろう。しかし経済活動が大きくなるに連れ、資源的消費量は増大するため二酸化炭素排出の絶対量はむしろ減らない。結論を言ってしまうとこの経済成長の罠とも言うべき状況を逃れる見込みはあまりない。2~3%のGDP成長を維持しつつ、気温上昇を抑制するためには今すぐにでも年10%前後の削減が必要だからだ。だが市場に任せてもこれが実現できないのは明白だろう。

中国、ブラジル等の経済成長が著しい中、これらの国々は環境に配慮している余裕等なく、相対的に二酸化炭素排出を減らそうということさえなされておらず、世界規模で見れば2004年から2015年の排出割合は年率0.2%しか改善していない。イギリスでは2000年から2013年にGDPがあ27%上昇したのに対し、排出量は9%減少した。しかし世界全体では全く解決の糸口が見えないのだ。

つまりグリーン・ニューディールと華々しい公約で選挙に勝っても、環境危機の解決には至らないのだ。問題はもっと根深いということに気づかないといけない。要するにこれまでの経済成長を支えてきた大量生産・大量消費そのものを抜本的に見直さないといけない。2019年、1万を越える科学者たちが「気候変動は、裕福な生活様式と密接に結びついている」ことを訴え、既存の経済メカニズムから抜本的に転換する必要性を唱えたのだ。世界の富裕層トップ10%が二酸化炭素の半分を排出しているという驚くべきデータもある。とりわけプライベートジェットやスポーツカーを乗り回し、大豪邸を何軒も所有するトップ0.1%の人々は極めて深刻な負荷を環境に与えている。ちなに日本人の多くはトップ10%に入るわけで、つまり私たち自身が当事者として、帝国的生活様式を抜本的に変えていかなければならない。

〇電気自動車の本当のコスト

現在ガソリン車が多くの二酸化炭素を排出しているのは間違いない。すべてを電気自動車にできれば巨大な市場と雇用も生まれるだろう。しかしここで鍵となるのがリチウムイオン電池だ。

リチウムの多くはアンデス山脈沿いの地域に埋まっておりチリが最大の産出国だ。リチウムは乾燥した地域で時間をかけて地下水として濃縮されていく。それをくみ上げて蒸発させるのだから、言ってみればリチウム採掘は地下水の吸い上げと同義である。一社で一秒あたり1700リットルもの地下水をくみ上げるものだから、現地の人々がアクセスできる淡水の量が減少している。

コバルトもリチウムイオン電池に不可欠だが、コバルトの約6割はコンゴというアフリカでもっとも貧しく、政治的社会的に不安定な国で採掘されている。地層に埋まるコバルトを重機や人力で掘り起こす単純なもので、世界中の需要を賄うために水質汚染、農作物汚染といった環境破壊が起きている。さらにインフォーマルな形で奴隷労働、児童労働も蔓延し、ノミや木槌のような原始的な道具を用いての手作業労働さえ行われている。中には6,7歳の子どももおり、賃金は一日わずか1ドルほどだという。

先進国における気候変動対策のために別の限りある資源がグローバル・サウスでより一層搾取されるにすぎない。しかし空間的転嫁によって不可視化されていることに気づく人は少ない。

この真逆にいるのがテスラ、マイクロソフト、アップルである。リチウムやコバルトがどのように生産されているのか、これら大企業のトップが知らないわけがない。実際アメリカの人権団体によって裁判も起されている。にも関わらず、SDGsの名のもとに技術革新と吹聴しているのである。そもそも電気自動車に替えたところでバッテリーの大型化による製造工程で発生する二酸化炭素はますます増えていく。

それでも技術革新という流れはまだまだあって、大気中の二酸化炭素を除去するネガティブ・エミッション・テクノロジー(NET)も言われている。代表格がバイオマスによって排出量をゼロにし、二酸化炭素を回収して地中や海洋に貯蔵する技術だ。しかし、これも膨大な農地(インドの国土の2倍)が必要だと言う。この為に森林伐採をしていては同じ話だ。こういった話は知的お遊びなのではないだろうか。

つまり技術革新をその生産過程にまで目を向けると完全ではなく、私たちの帝国的生活様式そのものを変えることが必要なのではないだろうか。その際にしばしば言われるのが生活規模を1970年代後半のレベルにまで落とすことである。その場合、日本人はボジェレヌーボーを飲むことも、ニューヨークで3日間過ごすために飛行機に乗ることもできない。しかしそれがどれほどのものだろうか。地球の気温が3℃上昇することに比べれば。そうなったらフランスのワインは生産できなくなり永遠に飲めなくなるのだから。

もちろん、こうした生活レベルを落とす未来のビジョンが魅力的な政治的選択にならないことは百も承知だ。だが、だからと言って受け入れられやすい緑の経済成長という政策パッケージに固執するのはグリーンウォッシュと言わざるを得ない。

〇脱経済成長という選択肢

ここまでの内容で脱経済成長の必要性は理解できるだろう。ではどのような脱成長を目指すべきなのか。豊かな生活をすればする程、外部環境への負荷が強まってしまう。しかしあるレベルを超えると経済成長と人々の生活の向上に相関が見られなくなるという。アメリカのGDPは欧州よりも高いが、社会福祉アメリカよりも充実している北欧の国はいくつもある。要するに生産や分配、社会的リソースをどのように配置するかで社会の繁栄は大きく変わる。いくら経済成長しても一部の人々が成果を独占し再配分を行わないなら、大勢の人々が不幸になる。

難しいのがこれをグローバルな公正さを持って実行することだ。空飛ぶ時代は来なくていい。カーボンバジェット(まだ排出が許される二酸化炭素)は恵まれない国々の為に空けておくべきではないか。食料について言えば、今の総供給カロリーを1%増やすだけで8憶人の飢餓を救うことができ、現在電力を利用できない人々は13憶人いると言われているが、彼らに電力を供給しても二酸化炭素の排出量は1%しか増えない。そして一日1.25ドル以下で暮らす14憶人の貧困を終わらせるには、世界の所得のわずか0.2%を再配分すれば足りるというのである。

今のところ日本人は世界トップ10から20%の所得に入るだろう。しかしこの先このままの生活様式を続ければ今のような生活を送ることができるのは世界トップ1%の富裕層だけなのだ。最終的に自分自身が生き延びるためにも、より公正で持続可能な社会を志向する必要があるのだ。

〇資本主義の限界

しかし資本主義システムを維持したまま問題が解決するほど生ぬるい話ではない。資本主義とは価値増殖と資本蓄積のために更なる市場開拓が運命づけられている。その過程で論じてきた問題が併発している。気候変動、環境危機さえビジネスチャンスなのだ。山火事が起これば火災保険が売れ、バッタが増えれば農薬が売れ、といった具合に。そして資本主義は自ら止まりはしない。ゆえに無限に経済成長を目指す資本主義とここで本気で対峙しないといけない。環境危機に立ち向かい、経済成長を抑制する唯一の方法は脱成長型のポスト資本主義に向けて大転換することなのである。

ただし日本には特殊事情があり脱成長は不人気だ。高度経済成長の恩恵を受けた、あとは逃げ切り世代が脱成長をきれいごとと吹聴しているイメージが強い。自分は恩恵を受けておいてあとの日本はゆっくり衰退していけばいいというのか。これが就職氷河期世代VSバブル世代、高度経済成長世代とでもいえよう。

一方海外ではいわゆるミレニアム世代、Z世代の環境意識は極めて高く、資本主義に批判的だ。実際アメリカのZ世代の半分以上が資本主義よりも社会主義に肯定的な見方を抱えている。

彼らはデジタルネイティブとして最新のテクノロジーを駆使して、世界とつながりグローバル市民として自覚を持ち、格差や環境破壊が一層深刻化している様を体感し絶望し怒っている。グレタはその象徴的な存在なのだろう。従って海外では環境問題、脱成長、資本主義への批判的な態度については新世代の理論として台頭してきている。

〇人新世に甦るマルクス

マルクスというとソ連中国共産党による一党独裁とあわゆる生産手段の国有化というイメージが強い。もちろんそういった過激な話ではない。コモンあるいは共と呼ばれる共有財産という考えだ。水、電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理することを目指す。ひとまず宇沢弘文の「社会的共通資本」を思い浮かべてもらっていい。豊かな生活をするためには、一定の条件が必要で前述のものがそれにあたるというわけだ。ただしコモンは市民が民主的・水平的に共同管理に参加することを重視する。そして最終的にはこのコモンの領域を広げていき、資本主義の超克を目指す点に決定的な違いがある。

〇欠乏を呼んでいるのは資本主義

資本主義は人類史上前例を見ないような技術発展をもたらし、物質的に豊かな社会をもたらした。そう多くの人が思い込んでいる。たしかにその一面もあるだろうが、例えば土地。ニューヨークやロンドンを見ればわかるが、小さいアパートの一室が数億円、家賃数十万はざらで広くなれば月数百万というものも多い。しかしそれは住居目的ではなく投資対象も多く、誰も住んでいないケースも多い。そのかたわらで家賃を支払えず部屋から追い出されホームレスも増えている。この事態は社会的公正の観点で言えばスキャンダルだ。一方投資目的の土地売買が禁止になれば土地価格は落ち着き、その一方で使用価値は変化しない。

もちろん一定のルールが必要だが共有財産としての土地であればルールに則って人々が適宜利用すればいいのだ。

価値とは使用価値なのであって貨幣で測るものではないはずだ。貨幣で測る価値が増えれば増える程、資本家にとっては有利で希少性を創出でき利益が上がる。しかし多くの人々は貧しくなっていくのだ。水がそうなりつつある。極端な話、空気ビジネスが始まったらどうなるだろうか。ロレックスもカシオも使用価値は同じなのだ。しかしブランド、広告によって終わりなき競争を生んでいる。

共有財産化する試みとして再生可能エネルギーデンマークやドイツが進めてきた。近年日本でも非営利型の市民電力が広がりを見せ、市民が議会に働きかけ私募債やグリーン債で資金を集め、耕作放棄地に太陽光パネルを設置するなど、地産地消型の発電を行う事例が増えている。この共有財産化は生産手段そのものにものにもワーカーズコープ(労働者協同組合)という形で試みをみせている。これは夢物語なのだろうか。ワーカーズコープも一歩外へ出れば資本主義にさらされてしまう。しかし貧困、差別、不平等を作り出し資本主義に対して誰も取り残さない観点からワーカーズコープが社会全体を変えていく一つの基盤にはなる。

私達は経済成長からの恩恵を求めて一生懸命働いてきた。しかしそれでは全員が豊かになることはない。人工的な希少性という豊かさをなくしていくことで、これまでよりも少ない労働時間で成立し、実質的な豊かさが実現し、最終的には地球環境をも救うのだ。

自己抑制のもと、物質的欲求に翻弄されないということは気候変動の時代にはますます重要になってくる。無限の成長を断念し、万人の繁栄と持続可能性に重きを置くという自己抑制だ。

コロナ渦で先進国ではマスクも消毒液も手に入らなかった。安くて快適な生活を実現するためにあらゆるものをアウトソーシングしてきたせいである。サーズやマーズが蔓延した際も多くの企業が精神安定剤等の儲かる薬の開発に特化していたために事態が深刻化させた。これも使用価値と価値の対立問題が顕在化している例だ。

デトロイトに撒かれた小さな種

デトロイトはGM、フォードなどのアメリカ自動車生産の中心地が産業の衰退によって失業者が増え、財政も悪化し、2013年には2兆円近い負債を抱えて破綻した街だ。いわばこの街は資本主義の夢が潰えた廃墟だった。街から人が消え、治安も悪化し、荒廃した状態だった。だが残された住民たちは諦めずに都市再生の取り組みを一から始めた。地価が大幅に下がり都市農業によって徐々に緑が戻ってきた。それによってコミュニティの絆がもう一度生まれた。こうした運動は世界的にも広がっており、デンマークコペンハーゲンではだれもが無料で食べてよい公共の果樹を市内に植えることを決めた。こうした動きはラジカル(急進的)な豊かさと言えるだろう。もしデトロイトの食料がすべて地産地消になったら、、この「もし」が資本の支配に亀裂を入れる。

〇使用価値経済への転換

パンデミック発生時に社会を守るために不可欠な人口呼吸器やマスク、消毒液は十分な生産体制が存在しなかった。コストカット目当てに海外に工場を移転したせいで先進国である日本マスクさえも十分に作ることができなかった。普遍的アクセスが必要とされるものには使用価値がある。GDPの増大ではなく、人々の基本的ニーズを満たすことを重視するのだ。これこそ脱成長の基本的立場に他ならない。

〇労働時間の短縮

使用価値経済への転換によって生産のダイナミクスは大きく変わる。金儲けのためだけの意味のない仕事を大幅に減らすからだ。マーケティング、広告、パッケージングなどによって人々の欲望を不必要に喚起することは禁止される。コンサルタント投資銀行も不要だ。深夜のコンビニは空けておく必要はどこにもない。年中無休もやめればいい。

〇生産過程の民主化

一部の大株主の意向が反映されるものではなく、時間はかかるが社会的所有として意見調整をしていく。例えば新技術が特許によって守られ、製薬会社やGAFAのような一部の大企業だけが莫大な利潤をもたらす知的財産、プラットフォームの独占は禁止される。その際市場競争の原理が失われるがもう十分豊かではないか。

〇エッセンシャルワークの重視

例えばケア労働は機械化できない。しかしこれこそ使用価値を重視している生産であることの証だ。介護福祉士は食事や着替えや入浴の介助だけでなく、日々の悩み相談に乗り、信頼関係を構築することでわずかな変化を感じ取り柔軟に対応する必要がある。保育士や教師も同じだ。

現在高給を取っている職業としてマーケティング、広告、コンサル、金融、保険などがあるが、こうした仕事は重要そうに見えるものの、実は社会の再生産そのものにはほとんど役に立っていない。ここでの矛盾は使用価値をほとんど生み出さない労働が高給なため、そちらに人が集まってしまっている現状だ。それに対して必要不可欠なエッセンシャルワークが低賃金で恒常的な人手不足になっている。だからこそ使用価値を重視する社会への移行が必要なのだ。考えてみるとエッセンシャルワークは低炭素で低資源使用なのだ。

〇ブエン・ビビール

エクアドルの先住民の言葉で「良く生きる」という言語をスペイン語に訳したものだ。この言葉、概念は南米で広がり、今では欧米の左派によっても使用されるようになっている。日本でも有名なブータン国民総幸福量もその一例と言える。

〇恐れ知らずの都市・バルセロナの気候非常事態宣言

最後にバルセロナ市とともに闘う各国の自治体の試みを紹介しよう。国家、大企業が押し付ける新自由主義的な政策に反旗を翻した革新的な地方自治体だ。民泊の営業日数を規制したアムステルダム、パリ、グローバル企業の製品を学校給食から締め出したグルノーブルなど、様々な都市がフィアレス・シティ(恐れ知らずの都市)のネットワークに参加している。中でもバルセロナは2020年に発表された気候非常事態宣言の中で、2050年までの脱炭素化の数値目標を掲げたマニュフェストを作成した。しかもこれは市民の力の結集なのだ。内容は飛行機の近距離路線の廃止や自動車の速度制限など、大企業と対峙しなくては実現できないものも多く、闘う姿勢があらわれている。経済成長ではなく市民生活と環境を守るという意思がはっきり読み取れる。この宣言は一夜にしてできたわけではない。スペインはリーマンショックの影響を最も受けた国の一つで、当時の失業率は25%に達し、貧困が広がり、EUのおしつける緊縮政策によって社会保障や公共サービスが縮小された。さらに観光業の過剰発展により市民向け賃貸住宅を観光客用の民泊に切り替えるオーナーが続出。家賃は急騰し住まいを失う市民も多く生まれた。この酷い状況に若者が中心となって、広場占拠運動が開始されたのが2011年。そこから市民政党が誕生したのだ。2015年にはこの政党が躍進し、党の中心人物が市長に就任した。

バルセロナはこう強調する。気候変動を引き起こしたのは先進国の富裕層だが、その被害を受けるのは化石燃料をあまり使ってこなかったグローバル・サウスの人々と将来世代である。この不公正を解消し、気候変動を止めるべきだという認識が、気候正義だと。日本語としては耳慣れない言葉かもしれないが、欧米では毎日のうようにメディアを賑わせている。

「まとめ」

私は極度の保守派でもなんでもないですし、選挙に出る気ももちろんないです。ただこの10年、20年の異常気象、特に夏の暑さは誰もが感じることだと思います。2100年は死んでますが、自分たちの子ども、孫世代にとんでもない地球環境が訪れるのだとすれば考えないといけない内容ではないでしょうか。

そこに資本主義の歪みも織り交ぜてなかなか面白かったです。

あまりにも壮大なテーマですので信ぴょう性はどうなのかとか、突っ込みどころも満載でしょうが、地球環境については概ね言っていることはわかると思います。

資本主義の見直しについては到底言及できるレベルにないですが、本書を読む限り一理あるのだと思います。特に欧州での自治体の動きが実際に起こっているという点、非常に勉強になりました。

途中、哲学書のようなマルクスについての掘り下げがかなり続き読みづらかったのですが。

現代は確かに十分便利で豊かだと思います。使用価値に目を向ける。個人的には以前から感じていたことでもあったので腑に落ちました。